明慧先生
小さな頃にお世話になった先生が亡くなっていたことがわかり、自分も年齢を重ねてきていることを再確認するとともに、次回の帰省時にお墓の場所がわかればお花を供えにいきたいなどと思っている次第です。
直接、先生の勤めていらっしゃる学校で教鞭を振るっていただいたというわけではなく、器楽(吹奏楽)の関係で特別講師のような形で自分の所属していた部の指導をしていただいたのが最初でした。
当時所属していた部の顧問の先生や親と先述の先生との係わり合いの仲、自分も一時期プライベートでもお付き合いが少しばかりあったという関係です。
父が平成9年に亡くなりその後は疎遠になっていました。
先生には名前で呼んでいただいていましたが、先生にとって自分は、多くの指導した子供たちの中の一人という認識だったのではないでしょうか?
主に指導していただいたのは小学生のときで、先生が顧問を務めていらっしゃった鹿児島商業高校の吹奏楽部に、部の仲間と見学に行ったり、うちの部に直接来ていただいて指導していただきました。
先生が編曲されたスパニッシュセレナーデという曲を、部で演奏したこともあった記憶があります。
この曲の頭の部分はタンバリンを使用し演奏する形に編曲されていました。
普通に皮の部分を叩くことと、親指で皮の縁部分をこすり、シンバル部を指の腹でなでるようにして演奏するのですが、叩くだけのイメージだったタンバリンに違ったイメージを抱けるようになった曲です。
これをすると親指が痛くなった記憶がありますw
片方の手を首の高さぐらいまで上げて手のひらをその位置で固定し、挙げた手のひらを軽く開き、もう片方の手を軽く握って、規則正しくまっすぐ上下させ、つたない技術しかない小学生の我々演奏者がタイミングをとりやすいように指揮されていた姿が思い出されます。
今思えば当たり前ですが、気になった部分があると演奏を即座にとめて、その部分を指導し、直前の区切りから演奏しなおすということをされていたのですが、幼かった自分は、その指導されている姿を怖いとも思っていました。
恰幅の良い、普段はとても優しい先生でしたけどね。
高校に入ってからは楽器を触ることもなくなり、お会いする機会も自分はほとんどなかったのですが、一度だけうちの家族とカラオケに行った記憶があります。
歌をほめていただいて恥ずかしかった記憶があります。
後述の記憶から平成に入ってすぐの頃だった気がしますが、先生の何かのお祝いだったか…、なぜその時にカラオケにいったかの記憶すらあいまいですが、うちの姉も一緒にいた記憶がありますので今度帰省したら聞いてみようかと思います。
一部ニュースで、朝鮮総連本部の入札の件が取り扱われていますが、この落札者の池口氏について、前述のお世話になった先生が、カラオケをご一緒した際に、ご自分の『兄』と話されていました。
どのくらい時期に差があるかは覚えがないのですが、先生とカラオケに行くより以前に、池口氏の百万枚護摩行のことが鹿児島の地方局でニュースになっていたことで、TVの中の人という程度の認識ではありました。
ですから、先生が『兄』と説明された際に自分は池口氏のお名前を知ってはいました。
ただ、先生と池口氏とは苗字が違い、違和感を覚えていましたが、家族間の複雑な事情もありえますので詳しくはお聞きしませんでした。
当時、宗教や政治に対して知識も興味のなかった自分でしたし、現在のようにネットですぐに著名な方の情報を検索できる時代でもなかったので、今朝まで記憶の片隅に追いやられていた情報でした。
しかし、今日ニュースを見かけた際にふと思い出し、先生の名前を検索してみると平成16年に亡くなられていると、とあるサイトに記載されていました。
思ってみれば、自分が小学生当時にすでにおじさんだったわけで、多少早いとは思いますが亡くなられてもおかしくはないお年だったのだなぁと…。
池口氏の旧姓は先生と同じでしたので、おそらくご兄弟なのも間違いはないでしょう。
あいまいな記憶の中、このことが印象に残っていたのは不思議なことです。
吹くことのできる場所を見つけて、下手の横好きでもトランペットなりコルネットを再度練習しようかなぁ…。